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朝鮮は自ら滅びたのだ。日本を恨むこともない。

http://oboega-01.blog.jp/archives/1006017861.html

朝鮮は自ら滅びたのだ。日本を恨むこともない。

日帝治下1920年代朝鮮の人口は2000万人だった。

かれらの中で、教育を受けた人は1%に過ぎなかったという。

すなわち99%の朝鮮人たちが、文字を読むことができなかったと見なければならない。

一例として、1922年1月5日の東亜日報社説を見ると、「新聞一枚はおろか、日常のコミュニケーションに必要な書面の一枚を作る者も100人に1人いれば幸いだといえる」と、ひどい朝鮮人の文盲状態を指摘した。

朝鮮末の非識字率は、日帝時代の1920年代の識字率(朝鮮時代の人口の95%が文字を読めなかった)とほぼ変わらないことが知られている。

朝鮮は、ただ1〜5%だけのための国家だった。

朝鮮は自ら滅びたのだ。

日本を恨むこともない。

それでは、日本の事情はどうだろうか?

開港前の日本人たちの全体的な意識のレベルは、朝鮮と比較して、すでに西洋文明を受け入れる準備ができていた。

日本の国民的小説家、司馬遼太郎は「幕府時代、文字を読める日本人の割合は70%にのぼった。当時の日本人の約10%がサムライだったが、かれらは識者階級だった。農・工・商に従事していた者も、文字を知っていた」と述べている。

明治維新前の徳川幕府時代のサムライを、刀を振り回す無知な人々というのは、日本を見誤っている。

明治維新期の日本人は、両班が治めていた朝鮮時代の民よりも、文盲率がはるかに低かった。

特に、藩主などの日本のサムライたちが残した文と芸術品を見ても、そのレベルは非常に高く、かれらが全人的教養人だったことを知ることができる。

日本の知識人たちは、朝鮮が辛未洋擾と丙寅洋擾を介して斥和碑を建てることに熱を上げるはるか前の1774年に、オランダから取り寄せた西洋の医学書を、辞書も通訳もないのに、まるまる4年かかってって日本語に翻訳した。

「解体新書」と呼ばれるこの医学書籍を翻訳した人は、杉田玄白という人物で、彼と彼の仲間たちが挑戦したオランダの医学書の原題は「Tafel Anatomy」だった。

解体新書が翻訳されて、日本の医学の技術は急速に発展し、蘭学(オランダの学問)の普及のきっかけとなった。

しかし、翻訳は通常の困難さではなかった。

杉田玄白

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玄白がこの医学書を翻訳しようとした理由は、人体解剖がそのきっかけだったという。

手に入れた「Tafel Anatomy」の解剖図が、目の前の人物と完全に一致したからである。

玄白などは、西洋医学書のこのような正確さに驚いて、翻訳を決意したという。

しかし実際に翻訳をはじめてすぐ「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したようで、頼るものもなくて苦しかった」という。

日本人たちは、その困難な医学書をどのように翻訳したのか?

当時玄白は医師だったので、本に載っている人体の解剖図を見ながら、臓器の名称を照合する方法を使った。

このようにして翻訳した臓器名のすべてを本文と対応させて、翻訳チーム内でオランダ語を最も得意とする前野良澤が知っているすべての単語を日本語に翻訳させた。

しかし最初は「眉毛は目の上の毛である」という文章の一つも解明できないまま、数日を過ごしたりもしたという。

こういうことを1年も続けているうちに、一日に10行程度を翻訳できるようになったし、4年の間に合計11回の修正を経て、1774年ついに「解体新書」を出版した。

解体新書

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「解体新書」を作りながら、日本語にはない新しい言葉もたくさん作られたが、ほとんどが漢字で造語されており、神経-軟骨-動脈のような言葉は、今日他の漢字文化圏にも広がって使われている。

鎖国」という単語は、1801年に志筑忠雄が、キャンベルの「日本志」を翻訳したときに初めて使ったのが最初だった。

しかし日本の江戸幕府は、同時代の朝鮮王朝とは異なり、積極的に国際交流を推進し取引をしていた。

オランダ、スペイン、ポルトガル、中国、琉球(現沖縄島)が貿易相手国であった。

特に、日本が輸出した銅は、欧州経済にまで影響を与え、硬貨は東南アジアの多くの国でも通貨として流通した。

インドネシアのバリ島などでは、昭和時代初期まで、日本の銅が使用されていた。

日本はまた、国際貿易を通じて国内にも多数の商品を輸入した。

たとえば江戸の有力商人は、外国制の香水をつけて、珊瑚のかんざしを挿して、グラスでワインを飲んでいた。

一方8代将軍徳川吉宗(1716〜1745年)の時代には、外国商品の輸入制限が緩和されて、漢字に翻訳されたヨーロッパの書籍をはじめ、ペルシャベトナムのゾウやラクダなどの珍動物までが流入していた。

吉宗はまた、自ら天文学、暦学、法学を身につけて、自ら降雨量を調べ、洪水を予想しており、西洋馬術を学び、部下にオランダ語を学ばせていた。

徳川吉宗

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日本の近代化を象徴するキーワードとして、よく和魂洋才が掲げられる。

「日本の精神」に「西洋の技術」を合わせるという意味だ。

日本人たちのこのような精神は、西洋学問を受け入れる過程でそのまま反映された。

一例として、「哲学」という言葉は、日本人が西洋の本を翻訳する過程で作成した単語だ。

啓蒙家の西周が、明治維新初期に「百日新論」という著書の中で、西洋の概念である「philosophy」を「哲学」に翻訳したのが初めてだった。

「社会」も同じだ。

新聞記者の福地源一郎が1875年に毎日新聞で使って、西洋の概念である「society」に該当する東洋漢字圏の言語として定着した。

もちろん日本人のこのような造語能力の源泉は、漢字を使っていたので可能なことだった。

韓日両国を比較して、しばしば陥る勘違いがある。

それは、まさに「朝鮮が鎖国政策を捨てて、日本より先に開港をしていたら、その後の歴史は大きく異なる展開になったはず」というものだ。

しかし歴史に仮定など存在しない。

韓国人は自らの過去と現在を客観化する方法から学ばなければならない。

さらに、日本との格差を少なくした李承晩の建国、朴正煕の近代化がどれだけ偉大なのか、そして奴隷国家の北韓ではなく、大韓民国に生まれたことに感謝しなければならない。

キム・ピルジェ