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学習によって模倣される欲望:メモ

 産業革命、資本主義は私たちの欲望を強烈に刺激し、それに個人主義がさらに油を注ぎ、欲望は加速する。欲望にとってはそれらすべてが麻薬となって、人は欲望の塊として生きることになる。そんな目立たない一例が印刷術あるいは版画。大量印刷は欲望を限りなく刺激し、際限のない好奇心を呼び起こす。情報はSNSを通じて拡散し、大量消費をさらに掻き立てる。誰かの欲望は別の誰かの別の欲望を生み出し、それがあっという間に伝染し、拡散していく。

 欲望を刺激するルールが変わることはパラダイムシフトに似ていて、私たちの社会を動転させてしまう。いつ頃からか、私たちは欲望を満たすために対価を払って交換するというシステムを編み出した。交換システムの成立は欲望を飛躍的に増大させた。物々交換、貨幣による交換、より進んだ情報による交換と進み、その過程で私たちの欲望は異常なほどに亢進していった。

 宗教的であれ、倫理的であれ、知恵は通常臆病で慎重なもの。伝統や常識に従うのが常で、新機軸を打ち出すのは知恵と分別ではなく、知識と大胆な勇気。知識は革新的だが、知恵は保守的。知恵の代表となれば、儒学仏教、さらには養生訓などが思い浮かぶ。その一例が仏教の「煩悩」への理解の仕方。欲望は重要な本能の一つだが、欲望は学習によって希望や意欲になる一方、悩ましい煩悩にもつながっている。私たちの本能は意思や意欲という肯定的な側面と煩悩や強欲という否定的な側面を併せ持っている。

 誰の心にも迷いがある。仏教ではこれを「煩悩」と呼んできた。百八煩悩と言うほどで、人の心はさまざまに迷い乱れる。なかでも、人の心を最も毒す代表的な煩悩が三つある。それらは「貪欲(どんよく)」、「瞋恚(しんに)」、「愚痴(ぐち)」、略して「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」と言い、三毒と呼ばれている。

 「貪欲」とは、むさぼりの心であり、自分だけがうまいことをしようとする強欲な心。人間の欲は五つある。食欲、睡眠欲、性欲という本能的欲望のほかに、財欲、名誉欲がある。これが五欲。こう書けば、食べることも、眠ることも、愛することも、みんな欲ということになる。「知足者富(たるをしるものはとむ)」と言ったのは老子。彼は「欲をかくのは、ほどほどにしろ。そうすれば心は豊かになり、ふところも豊かになる」と言う。こういう心がけでいると、私利私欲はいつの間にか、「公利公欲」、つまり、社会のための利益を考えるということになる。これが「大欲(たいよく)」。ここまでくると、仏道の目的である「煩悩かえって菩薩(仏さまの心)となる」という境地にまで到達できる。

 さて、次の「瞋恚(しんに)」は怒りの心。「よく怒る人は、欲が深い」と言われる。確かに、欲の深い人はわがままで怒りやすい。このように、貪と瞋は親戚。「怒り」というのは、瞬間湯沸器のようにすぐカッとなることを言う。何かが心のカンにさわると、たちまち怒り出す。ところが、「瞋恚」の瞋(いか)りは、目を三角にして瞋ることであり、恚(いか)りは、恨みに恨んで恚ることである。したがって、「瞋恚」は、ねちねちと嫉妬心から瞋ることが多い。「生きかわり、死にかわり、たとえ地獄の果てまでも、この恨み晴らさずにおくものか」というのが、いちばんおそろしい。それにしても、人がみんな自分の思いどおりに動くわけがない。それに腹を立てて、すぐ喧嘩をするのは、この上もなく愚かなことである。

 最後は「愚痴(ぐち)」。自分の望みがかなえられないと、愚かな喧嘩をはじめる。それに負けると、こんどは愚痴を言う。貪欲や愚痴の心で世の中を生きていると、他の人が困ることがわからない。それでいて愚痴をいうのであるから、救われない。

 さて、このような分類は一見説得力がありそうに見える。説得力だけでなく、知恵がみなぎっているとさえ思う人がいるのではないか。だが、分類の根拠も、分類から何が主張できるかも実のところ定かではない。

 ルネ・ジラールは『欲望の現象学』(吉田幸男訳、法政大学出版局)で次のように述べる。人は個性を重んじ、一人の人を愛し、自分が他の誰でもない唯一の存在だと思いながら、他の誰とも同じであることを望む。この矛盾した心情は誰の心の中にもある。自分はユニークな自分でありたいと望みながら、仲間と同じだとも感じたいのである。「この世にたった一つのもの」に憧れるのは老若男女を問わない。誰もが自分のものにしたいと思う。そのためには権力や金力が不可欠。すると、実現できる人は一握り。

 自らの気持ちを隠すことと、それを明け透けに表現することの間、それを印刷術や版画という技術によっていとも簡単に乗り越えてしまうことの痛快さは、私のような哲学者より科学技術者の方がずっとよくわかる筈である。胸のすく痛快さである。心の中を顕わにしない節操とか心の中のものを吐露するとか、大量生産はそんなことをいとも簡単に無視してしまう。大量生産は私たちの心に対する態度を完璧なまでに変えてしまった。

 思想は共有によってはじめて存在できるが、その共有のためには直接に語り合えることだったのがギリシャ時代、そして中世まで。それが次第に一緒にいなくても思想を共有できるようになっていく。今なら、いつでもどこでも簡単に情報を共有できる。

 人は欲望を学習する。その結果、人の欲望は他人の欲望の模倣になる。つまり、もし私が「Aがほしい/したい」と思ったとすれば、それは私自身が自分で生み出したものではなく、誰かほかの人が「Aがほしい/したい」と表明したのを真似ているのである。確かに、「良い家を建てたい」、「速い車がほしい」といった欲望は、実際に叶えている人がいるからこそ、現実味をもった欲望として成立する。

 人間の欲望は他者の模倣という形でしか存在せず、オリジナルの欲望はありえない。しかし、実際の社会には様々な欲望が存在しているという批判に対しては、模倣は模倣する主体が「あの人は〜を欲望している」と誤って思い込むことからでも生じるし、また正確に欲望をトレースするわけではないから、そのズレが現実の多様性を生み出していると解釈できる。「欲望する主体、欲望の媒体(模倣される人)、欲望の対象」という関係が見出される。

 さて、ここで重要なのは、その主体と媒体の精神的な距離が近いほど、対象は具体性を増し、主体と媒体で対象を取り合う関係になってしまうことがあるという点である。そうしたとき、「私は〜を欲望している」と言明することは、媒体にとっての障害になることを宣言しているのに等しい。後追いで欲望を宣言するのは、挑戦的な宣言であり、誰かのモノを奪おうとする行為と同じになり、争いが誘発される。

 だが、現在人々は「法の下に平等」で「平和こそ至上」である。そして主体が確立した市民たちは、個人は自律性をもつものとされている。さらに、自分と周りの人間は平等であることをきちんと教育されている。つまり、媒体と主体の距離は限りなく近く、個人の自律性を否定する模倣は、禁止されるものとなった。それだけ対象が具体的になり、奪い合いの関係になることも多い。自分の欲望をさらしてしまうことは、「私は自律的ではありません」と宣言してしまうばかりか、実際は媒体が対象に最初は無関心であっても、媒体が主体の欲望を逆に模倣し直すことによって、その媒体の欲望が真実になってしまい、対象をめぐる両者の激闘が始まる。

 現代はこのような主体と媒体の二重の模倣が起きるので、人々に求められる姿勢は「他者への無関心」。つまり、実際は模倣を通して得た欲望を、「私はあの人に興味を持たないので模倣ではない」と捉え、巧みに隠蔽するのである。だから、怒りの表出や感情の吐露は相手に自分の欲望を知らせてしまうことになるので、また傍目から見れば近い人間同士の欲望は酷似しているのは明らかなので、「恥ずかしいこと」、「慎むべきこと」とされるのである。

 だから、無断で自分の模倣をする人間を見ると、かつて自分もまた模倣によってその作品を作ったことを思い出し、自律的であることが脅かされると自覚できるので、そうしたことに腹が立つ。そして、正直に模倣であると白状する人間に対しては、自分は模倣される対象で、自律的であることを支持するので、腹は立たず、気分がよくなる。パクることがなぜ「恥ずべきこと」なのかの理由が見出される。